117.お前らに考え方を教えてやる

「最近の若者は〜」なんて言うと、自分がオッサンであることを認めるようで癪だが、
そのワードが最初に浮かんだことは紛れもない事実であり、
そこから別の表現を探すとなると、何だか取り繕っているような気分にもなってきて、
やっぱり「最近の若者は〜」と言うことになるのだけれど、

無批判かつ遠慮なしに言う「最近の若者は〜」という言葉と、
批判的かつ遠慮がちに言う「最近の若者は〜」という言葉は、

似て非なるものであり、

それは量りが示す重さ100gと、一周回った1100gが同じ位置にあるということだが、
見た目は同じでも、既に何周もグルングルン回っていることだってあり得るのであり、

たとえるなら『新世紀エヴァンゲリオン』が、というか、庵野秀明が、
二十年掛けて凡庸なエンディングへと辿り着いたようなものであって、
つまり、私が紡ぐ言葉も、その類のものであるという長々とした釈明。

なお、それが必要となるのは、差異を感じ取ることができる鑑賞者が、
全体の一割にも満たないからで、その乖離は屡々<表現者—鑑賞者>、
或いは<鑑賞者a—鑑賞者b>が対立する原因にもなっているわけだが、

事後において、

表現者の立場から差異を感じ取ることができる鑑賞者を「優れている」と評価すると、
作品(この文章)は内側に閉じることになり、鑑賞の自由を否定することになるので、

私は事前において、というかプロセスの中で、答えは示さないまでも、指向性を示す。

いま、まどろっこしいなって思いましたか?

だが、文章を書くということは、こーいうことをグルグルと考えるということであり、
「何も書けない!」というのは、私に言わせれば、何も考えていないのと同義なのだ。

ここで勘違いしてはならないのは、

いまの私は、常態化された無思考な振る舞いを責めているのではない・ということだ。
人間は考えたことを書くのではなく、書くことによって考えるのだと、伝えたいのだ。
本文もそうやって書かれているということだが、本日はそのような話をしたいと思う。

で、最近の若者は(笑)ケータイ小説を知っているだろうか?たとえば『恋空』など。
私は中学生の時分に、その走りである『Deep Love』シリーズを読んだことがあるが、
文章が酷いの何のって。感情を煽ることに特化しているだけで、内容的には支離滅裂、
基本的な「てにをわ」すら怪しいときたもんだ。
このことは作者の文章作成能力にのみ責を負わせるべきではない・という歪な主張が、
今回、私が主張するところに繋がってくるのだ。

そもそもの話、ケータイ小説とは何かであるか?

ケータイで閲覧されることを前提とした小説――というだけでは、実は不十分である。
正確にはこうだ――ケータイで閲覧されることを前提に、ケータイで執筆された小説。
このことを先刻の主張に照らし合わせてみると、
ケータイ小説の粗末な文章は、半分以上、トグル入力に導かれたものであると言える。
極端な話、フォーマットを原稿用紙に変えれば、
それだけでケータイ小説の奇怪な文章は、多少マシになるであろうことは明白なのだ。
私が執筆道具に拘っている理由はここにあって、
種類が最重要であることには違いないが、同一レイヤーにおける質の問題も侮れない。

たとえば、

「キーボードなんてどれも一緒でしょ(笑)エレコムの千円くらいのヤツでいいよ!」
なーんて宣うヤツには、千円くらいの文章しか生み出せないのだ。
「プロの作家にも安キーボードを使っている人はいるのでは?」と思うかもしれない。
いやはや、質に拘ったらもっと文章の核心に近付けたのに残念だ!
「弘法筆を選ばす」と言うが、実際の弘法大師が筆に拘りまくったことは有名な話だ。

「高ければ高いほどいい」というのは、ただの成金趣味であって、
実際には個別に最適化されていることの方が重要だと私は思うが、
一定のラインまでは価格と質が比例関係にあることは事実なんで。

とはいえ、同一レイヤーにおけるフォーマットの質は本質的な問題ではないのである。

>人間は、考えたことを書くのではなく、書くことによって考えるのだ

つまり、どのようなインターフェース、フォーマットを用いるかにより、
どれだけ思考がドライブするのか、その凡そが決まってしまうのである。

先刻は、同一レイヤーにおけるフォーマットの質の問題を取り上げたが、
ケータイにせよ、キーボードにせよ、原稿用紙にせよ、
思考をドライブさせる上で最適なものではない・と私はここで断言する。

なぜなら、言葉(自然言語)で考えざるを得なければ、
右から左に、或いは上から下に論理を積み重ねていく他ないからである。

つまり、思考が多次元的に広がらないのが問題である。

一方、白板を使えばどうか?

PLC(ベルカーブ)や三次元マトリクス(集合)などの図形を用いて全体構造を先に考えたり、
段階的な論理展開に縛られずに、矢印(射)で対象間をサクッと関係付けることも容易なのだ。

なぜノートではなく白板がいいのかと言えば、白板は体を大きく動かさざるを得ない故である。
(思考は脳内の抽象処理ではなしに、知覚身体と分かち難く結びついているのだよ)
加えてノートに、ちまちまにちにちと書いていても、思考が空間的に広がって行かないでしょ?
まあ、一列の線形構造以上のもの――多次元空間の幾何学的配置を許容する向きは悪くないが、

「もっと頭を働かせられるようになりたい!」とか「もっと賢くなりたい!」と願うのならば、
あなたはキャンバスのスケールを上げなければならない……否、それ以外にないと断言するぜ!

結論、白板買いましょ(笑)※これが一周回った1100gの重みだよ。

邪魔になると思うかもしれないが、壁に貼れるタイプもあるんでね?
私自身、いまでも書斎の壁一面をホワイトボードにしているほどだ。

注意点は、家族の伝言板みたいな極小のスケールで導入しないこと。
身体を動かせなければ、図形の空間配置もままならないからである。

尤も、私は絶賛(?)足腰を痛めている最中であって、
壁一面の白板があっても身体を動かせないんだけどな!

健康第一……ではなく、本記事はケータイのみで書いたということ。
頭の中にキャンパスを描ける私だが、いつもと語り口が違ったはず。

だから私は基本的にキーボードでなければ執筆はしたくないのだよ。

今回は不具合さえもトリックとして組み込んだので良かったものの、
(それによってクオリティが維持されたという意味)
全体的なパワーダウンは避けられないわけで、それは公開しかねる。

まあ、皆さんから見てクオリティが維持されているのだとしたら、それも悪くないのだろうが。
最低限の水準に高めるために、四時間も掛かっていたなら仕方ねえ。
いつもの環境だったらニ十分で書けることを考えると、十二倍の時間が掛かっているのである。
しかし、あまりにも記事を更新しないと皆さんの成長が鈍化すると思ってな、いやはや愛だね。

みんなの音楽

本日の一曲は、ICE BAHNで『LEGACY』

「命と等しき神輿の下、重んじるものは利より義だ」つまりそーいうことでしょ。

いやまあ、そんなわけで、また遠くないうちに記事を更新します!

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